北海道保存車輌制覇の旅~2日目その2~


この投稿がブログ開設以来100回目の更新なのですが、誰も気にしません(笑)

 

6時前に士別市つくも水郷公園を出発した管理人

目指すは名寄本線下川駅跡 ふれあい広場です
ここに色を塗り替えられてはいるものの気動車が展示されているということで、それを撮るために向かうのです

国道239号をひたすら北上し

道道538号線と宗谷本線が交差する踏切の近くに立つ看板の可愛らしさに微笑みつつ

久々の郊外ロードサイド型ラブホテル(勝手に分類命名)を見たので撮影し(こういうことやっているから時間がなくなるんですね)、下川町中心部に入るころには土砂降りになっている空模様に辟易しながら目的地に到着しました
時刻はまだ6:40です

かなりいい降りの中撮影開始です
広場に保存されているのは気動車2輌と腕木式信号機

JRマークは入っていますが、とんでもない色をしています
おまけに近くで見るとかなり腐食が進んでいます

下川駅行きのサボが入っています
名寄を発車して最初のそれなりの規模を持つ町が下川だったので、路線の廃止直前まで急行が停車し、この駅止まりの列車もありました
そのかわり下川以東には紋別と湧別(大甘に見ても興部が加わるくらい)くらいしか「それなりの規模を持つ町」がないので、それが「本線」なのに廃止されてしまった名寄本線致命傷だったかもしれません
実際名寄本線は「上川~遠軽にかけてそびえる峠を迂回して、札幌・旭川と遠軽・北見を結ぶ」ことを目的としており、ここを短絡する石北本線が開業したら、その路線維持理由は半ば失ったも同然なのです
ちなみに現在の石北本線にあたる石北線が開業した(=峠を制覇した)のが1932年、名寄本線となったルートが成立したのが1921年なので、10年少しで「札幌・旭川~遠軽・北見連絡」の役目を終えたこととなります
連絡の任務を終えた名寄本線に残された道はローカル輸送なわけですが、ここで先ほど記した「下川以東には紋別か湧別くらいし『それなりの規模を持つ町』がない」という沿線状況がきいてくるわけですね
それでも(ずっと後で記しますが)この路線が生き残る道というのは、実は結構いい線まで模索されていた模様です

さて、時刻は7時少し前
今度管理人が向かうのは和寒町郷土資料館

そうです
昨日・今日とやってきた道を、そのまんま逆戻り・南下して和寒へ引き返すのです
また土砂降りが激しくなってきた下川町中心部を抜け、ラブホテル・看板の前を通り、昨夜は緊張の中走った国道40号線を士別・剣淵と南下
途中立ち寄った「道の駅 絵本の里・けんぶち」ではたまたま休憩していた自衛隊の皆さんとおしゃべりをし(だからそういうことやっているから遅れるんです)、和寒町郷土資料館には8時過ぎに到着です

こんな朝早くなので当然郷土館は閉まっていますが、お目当てのSLは郷土館隣の小さな公園のようなスペースに屋外展示されています
本当は郷土館にもなにがしかの資料があるらしいのですが、今回は見送りです

というわけでD51337を正面から

斜め前から

後ろから
炭水車の上に何やら鉄材のようなものが渡してあります
また後ろ側にはベンチがおいてあったのですが、ちょっと座るには耐久性が……

スカートに刻印されている車番
こういう備品もその車輌車輌で専用のモノが割り当てられているのでしょうか(専門家じゃないんでわからないです)

こちらが略歴
岡山→吹田と移動してから北海道にわたってきたようです

さあちゃちゃっと撮影して次の目的地へまいりましょう
ちょっとした高原を越えて、幌加内交流プラザというところへ向かいます
地区センターというか公民館のような施設で、廃止された深名線の代替バスが発着するバス停としても機能する拠点となっています
同時に交流プラザの2階に深名線資料館というものがあり、保存車輌が全くないといってもいい深名線沿線において唯一まとまった資料が得られる場所なので、必ず押さえておきたい場所でした

その高原のようなところを越えていく際の車窓から
見事な蕎麦畑です
昔農業体験かなんかのイベントで蕎麦を育てたことがあるのですが、小さな白い花にミツバチが集まって一生懸命に蜜を集めていた光景を鮮明に覚えています
しかし所詮農場の一部分での栽培だったので、ここまで広々と一面に広がる白い絨毯は初めて見ました
なかなか感動もんです

8時少し過ぎに出発したのですが、こんな感じで写真を撮っていたので若干時間をロスし、幌加内交流プラザには8:50の到着です
しかしまったくもって問題なし、資料館の開館が9時なので、それまでの間ゆるゆるとプラザ内を見学です

こちらが入口
商工会議所・観光協会・資料館・バス待合所が集まった施設です
ちょっとびっくりしたのですが、道路沿いの歩道にバス停が立っていないんですね
駐車場からも見えなかったのでどこに停まるんだろうと思いながら中に入ります

館内図
「ジェイ・アールバス乗降場」の文字が見えます
バス乗り場は裏口側にあったわけですね、それは表からはわからないわけだ

こちらが深名線代替バスの時刻表
深川方面は上下で5・6本、名寄方面は平日上下5本・休日3本の運行本数です
現在名寄方面はバスであってもかなりの利用者の少なさであると想像できます

そのバス時刻表の隣に鎮座しているエゾシカ?の剥製
なぜか時刻表の方を見ています(笑)
ここまで来て何故かバス停を撮らずに引き返す管理人

(写真略)

階段の近くには第7全国高校生そば打ち選手権で幌加内高校が優勝したことを示すポスターが
まず「こんな全国大会があるんか」という驚きが一つ
次に「さすが蕎麦のまち」という感嘆がひとつ
そして「全国一の生産量じゃあ負けるわけにはいかんだろうなあ」という納得の感情が一つ

二階にあがるといよいよ資料館の案内が

時刻は9時
資料館が開館しました

深名線の略歴です
駅名読み方大全でも既にふれられているとおり、深名線は深川から北の幌加内へ伸びる雨龍線幌加内線の南側と、名寄から南の方へ向かう名雨線の北側に分かれて建設が進められました
雨龍線は1924年に深川~多度志が開業、1931年に幌加内に到達して幌加内線に改称し、翌年朱鞠内まで延伸されます
1937年に名寄~初茶志内(はっちゃしない・後の天塩弥生駅)が開業した名雨線が1941年に幌加内まで伸びたことで、幌加内線が名雨線を編入・統合し、(写真内文中の「昭和16年に名寄まで開通」はこの延伸と編入・統合を指す)ここに深名線が全通するのです

(写真略)

雨龍線の鷹泊~幌加内が開業したのは1929年11月8日
その開通を喜ぶ小樽新聞の記事です
きょう幌加内沃野よくやあがる鉄道開通の歓呼
雨龍宝庫の扉はひらかる
多年の念願かのうて
という見出しで雨龍線の延伸がかなったことと幌加内の地理、さらに産物が(やや誇張気味に)書かれています

また、
僅か二里の道が米一俵六円
全国で単独請願が始め
吉利智宏氏の懐旧談
と吉利氏の苦労話が三段にわたって書かれており、要約すれば
①明治の終わりに深名線の敷設計画書を後藤新平にもっていったが、個人で鉄道請願したのは初めてであった
②軍その他の調査で資源が山ほどあることがわかり、早く敷設するべきだとなった
③調査団が通った温根別町から添牛内まで(二里≒8km)のルートは道が悪く、多額の費用がかかった
④しかもその費用を毎日一々報告しなければならなかった(道が悪いってのに可哀想に……)
⑤測量隊が調査している途中、地域の方の好意でビールの差し入れと乗馬の提供があった。また雁を食べたが面白い味だった
⑥測量隊の歓迎宴もやるとのことだったが「それは鉄道が通ってからにしようや」と言って断った
とあります

さらに
千の美声より一つの汽笛
きょうの歓びを迎えて
幌加内村長 藤澤辰二郎氏談
と題して
①本当は昨年(=1928年)までに幌加内(もしくはさらに北の添牛内方面)まで開業するはずだったが、関東大震災(1923年)やルート途中での難工事やらで遅れた
②添牛内の住民も鉄道開通を待っている(なお添牛内まで開通したのは1931年)
③遅かったけどやっと鉄道が来て村中大喜び、これでこの村もようやく産業が活発になり人口も増えるだろう
④ささやかだけど祝賀会をやって、議員先生らに感謝の意を伝えたい
⑤住民たちも忙しい中自主的な協力ありがとう
とまあ村長も嬉しさ大爆発です

またさらにその下には
十億噸じゅうおくトンという炭田の開発
一大米作地で奥に大森林
堀越北建事務所長談
ということで雨龍線の建設意義が説かれると共に、雨龍の埋蔵資源がこちらでも大風呂敷を広げるが如く書かれています
さらにここまでの工事状況が書かれています

雨龍線の建設意義は石狩と天塩を結んで開発を進めることであり、同時に将来的には樺太連絡ルートの一部となる!とぶちあがっていますが、実際には全通した4年後に樺太は失いましたし、それ以後もローカル輸送に徹し続けました
また「埋蔵10億トン」と喧伝されている雨龍炭田でも、その中心的な炭鉱で記事中にも出てくる浅野炭鉱ですら1940年に記録した出炭17.5万トンをピークに、エネルギー革命や採炭コスト増加によって出炭量減少が続き、約40年で閉山
10億トンの大半を掘らずに終わってしまっています
森林資源も道路整備や外国産木材の流入がありますし、どうにもうまくいっていません
唯一「一大米作地になるだろう」との予想はあたりましたが、幌加内町が米の有力生産地となったのは昭和も終わりに近づくころであり、その時には既に減反政策が始まって蕎麦に作付転換される始末
うーーん……
工事状況を見ると関東大震災のことは書かれていませんが、やはり峠越えのトンネル工事が延伸の遅れた原因だったようです

また記事の下側には祝賀会参加者の氏名がずらり
役場の人や工事に携わったであろう人たち、議員や村区長はもちろんのこと、おそらく沿線小学校の校長先生や幌加内村の店店の主人らも列席しています

(写真略)

続いて1932年10月25日の小樽新聞
幌加内線が朱鞠内まで延伸した当日の記事です
こちらも深川村の村長や幌加内村の村長が鉄道の開通に喜びを語り、村の長老格であろう吉田三郎氏が昔を回顧しています
深川町長の山本彦太氏は
①私も結成に携わった幌加内線の建設期成同盟を立ち上げたのは十七年も前、ようやくの全通に昔を思い起こす
②資源輸送に活躍することは勿論、沿線住民にも利便性がある
③将来的に朱鞠内は鉄道のジャンクションとなり、この路線の価値も上がるだろう
とあります
「朱鞠内が鉄道のジャンクションとなる」とは、朱鞠内で名雨線と結びついた史実(つまり深名線の全通)を指しているのではなく、羽幌から熊害で有名な三毛別を経由し朱鞠内・名寄と結ぶ路線の開業を指しています
この横断路線を名羽線といい、改正鉄道敷設法に記されている「天塩国名寄より石狩国雨龍を経て天塩国羽幌に至る鉄道」の開通を山本氏は念頭においているのです
この新聞記事で「幌加内線『全通』」と書かれていることからもわかるとおり、国・地域の想定としては朱鞠内駅でT字に路線が交わるはずだったのです
結果としては名羽線の一部として開業した名雨線(発音はどちらも「めいうせん」)と幌加内線がくっつき、名羽線の残り部分(朱鞠内~羽幌)は国鉄路線としては建設されなかったわけですが……

幌加内村長の岡本幸信氏も
①幌加内はだだっ広い耕地とたくさんの資源がある
②鉄道開通前は幌加内は陸の孤島だったが、鉄道開通で人口も産業も右肩上がり
③将来的に朱鞠内は鉄道のジャンクションとなるだろう
と朱鞠内の鉄道結節点化について述べています
岡本氏は山本氏の述べた名羽線のみならず、「札佐線」と呼称される路線についても言及しています
調べたところによると、札沼線の終点である石狩沼田から伸ばして幌加内線に接続、朱鞠内から再び分離して北上し宗谷本線の佐久駅に達する計画があったそうですが……あったそうですが、一体どこを通すつもりだったのかと言いたいくらい、通過予想ルートには山ばかりです
まあ資源輸送に利用するつもりだったのでしょうね、なんせ米や砂利を運ぶのにも苦労する道しかないのですから

幌加内村開拓功労者としてインタビューに答えた吉田三郎氏は
①まったくの原野であった幌加内で150万坪を取得し耕作を開始した
②しかし度重なる水害で道は破壊された
③あんまりにも道は壊れるし春先にはどろどろのぐちゃぐちゃになるのでモノが運べず、例えば南京豆の価格が幌加内では深川の9倍にもなるし、こっちから深川に売って利益になるようなものは菜種以外になかった
④ついに私財をなげうって道を修復し馬が通れるくらいにした
⑤郵便が開設され、和寒幌加内の道も出来てようやく便利になった
⑥そんな中吉利智宏という人が美深と幌加内を結ぶ鉄道計画を立てていると代議士から聞いた。幌加内に吉利氏と測量隊が現れたときは吉利氏に会いにいき喜んだものだった
とあります
最初美深と幌加内を結ぶ予定だったので、吉利氏の懐旧談に「温根別町から添牛内まで二里」を調査したという一節が出てきたんですね
また同じく吉利氏の話に出てくる歓迎宴のお誘いは、吉田氏らが関係しているとみて間違いないのではないでしょうか
記事原文では「吉利氏が(中略)来たるに会見し幌加内有志集合して真にむせんだ」と書かれています
情景が結構一致していると思いません表の

こちらは深名線の年表
昭和10年のところに「名羽線の一部の名雨線として着工」とあるので、上の管理人の見立ては間違いではなさそう

幌加内駅に掲示してあった駅名標・時刻表および運賃表です
運賃表に6.3.1と書いてあるので最末期のころですね
東京都区内までの運賃が記されているあたりに時代を感じます
それにしても幌加内まで15000円出しておつりがくるのか……(今だと深川までで既に15000円を超える)

朱鞠内で系統分離していたので、行先標(サボ版)も「朱鞠内⇔名寄」なのでしょう
昭和中期までは全線走破する列車も幾本かありました(資料館内に列車運行の変遷を示す時刻表のパネルがある)が、最末期の平成7年版は完走列車は皆無、本数もスカスカです

 

資料館中央に設置されているジオラマ
紙粘土で作られたと思しき可愛らしい気動車が飾ってあります
この気動車は戦後しばらくしてレールバスでしょう
この他鉄道電話やホーロー製と思しき駅名標、制服など展示してありましたが、今回の旅の目的としてはそこまで重要ではないので割愛
やはり保存車以外のものではホームページの先頭を飾るにはきついものがある、ダム建設が終わった後は乗客も少なく、バス転換もあっさり合意しただけあって保存熱も薄いのかしらん……
などと思いながら、滞在時間30分ほどで撤収しました

さあ、お次は名寄市の北国博物館
すなわちここから旧深名線・朱鞠内湖沿いに北上し、名寄市街に向かいます
博物館屋外に保存しているという「キマロキ編成」、どんなものなのでしょうか